20年ほど前、新しい家に越してきて、ずっと憧れていた庭のある暮らしができるようになりました。そして、少しずつ植物の数も増えていきました。
特に好きなバラは毎年増えていきました。冬の剪定で出た枝も挿し木をして増やしたり、友達とバラの挿し木苗を交換したりしました。

蔓バラを2本フェンスに絡めた二年目の初夏、いよいよバラの季節到来と、花が開くのを今日か明日かと楽しみにしていました。蔓も5本に増え(作業中に2本折ってしまいました。)、蕾の数も去年の3倍くらいありました。
ある朝、バラがよく見える南側の道路に出てみると、蕾の付いた枝が折られていました。翌朝も、さらに次の朝も、蔓バラや、フェンスから手を伸ばせば届く範囲のバラの枝が折られていました。
花を楽しみにしていた気持ちが、悲しみと怒りでどんよりとなりました。
それは翌年も続きました。花の咲いている間、枝を折り続けられるのです。どうにもこうにも悲しくて、こんな悲しい思いをするなら、バラは、道路から見えないところに植えるしかないと思い、その年、気温10度の日が続いたら植え替えをするつもりでいました。

ところが、人生思い通りにいかないものです。
その年の冬、気温が10度を下回るようになったころから翌3月初旬まで体調を崩し、庭に出られない日が続きました。
バラの芽が動き出す3月中旬、ようやく庭に出ることが出来るようになったので、根を傷めないように軽く肥料を施しました。

寝込んでいた体はなかなか思うように動きません。すぐ腰は痛くなるし、息は切れるし、肥料の匂いが鼻につき軽く頭痛も起こします。
「こんなつらい思いをしてバラの世話をして、それは、誰かに枝を折られるためじゃない・・・。」
と、心の中でつぶやいていました。きっとその時の私は鬼瓦のような恐ろしい顔だったに違いありません。
「泣いていいのは美人だけ、不細工は愛想良く笑っていなさい。そうすれば幸せになれるから・・・」なんて、何かで読んだことがあります。
「そんなの無理!!」、と思いながらバラの根元に肥料を淡々と入れていきました。
肥料の袋は5キロ、しかし私には重くて引きずりながらの作業です。
7本目のバラに差し掛かった時、私は、バラは手入れしてもしなくても毎年花を咲かせていることを思い出しました。そしてそのバラにいつも励まされていたことと、バラに一度もお礼を言っていなかったことも思い出したのです。

私は幹をなでながら、バラに感謝の言葉を言いました。一つ一つすべて心からありがとうを言いました。
すると、バラの枝を折った人のことが頭に浮かんできました。
「バラの枝を折った人は、きっとこの花を見て綺麗だと思った瞬間があるはず。その瞬間だけは嫌なことすべて忘れているはず。綺麗だと思ったから枝を折ったはず・・・ ならば枝の一本ぐらいいいじゃない。根っこまで持っていけるわげないし。根っこさえあれば来年また咲く。」
と、思いました。
それで、「バラさん、どうぞ枝を折った人の心も私を癒すように癒してください。」と、特に道路側のバラに言いました。
一日かけて庭と鉢のバラに肥料をやりました。後はまた体調回復をひたすら待つ日々が続きました。
そして、6月、なんと、その年のバラは今までになくたくさんの花を咲かせました。一つ一つ美しく大きな花が、道行く人々を楽しませただけでなく、枝の一本も、たった一本も折られていませんでした。
驚くことはそれだけではありません。それからずっと、枝を折られることはなくなりました。
Photo by Yasunosukey
人は植物を育てていると言いますが、実は植物は、人を観察しているのかもしれません。
花が好きでなければ、花の好きな環境は作り出せません。しかし、「取らないで、それは私のものよ!!」という気持ちもしっかり見ているのかもしれません。適切な手入れで花は確実に咲きますが、怨念のように植物たちを縛っていたら、植物本来の伸びやかな美しさを見ることはできないのかもしれないと思いました。
あの枝を折っていた人は、なぜ折るのをやめたのかわかりません。自分も同じバラを買ったのか、遠くへ引っ越したのか、それはわかりません。
それからのバラは、花が咲く度、人間のあさましい悪念のバトルに巻き込まれなくなりました。そして、7月、11月と返り咲きの花も多くなりました。

今年もまた花の時期に寝込んでしまいましたが、その間、次男がバラの剪定をしてくれました。それから写真をたくさん撮って、庭に咲くバラを見せてくれました。
大げさですが、今年も生きてバラの花を見ることが出来ました。
花さん、今年も綺麗に咲いてくれてありがとう。
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特に好きなバラは毎年増えていきました。冬の剪定で出た枝も挿し木をして増やしたり、友達とバラの挿し木苗を交換したりしました。

蔓バラを2本フェンスに絡めた二年目の初夏、いよいよバラの季節到来と、花が開くのを今日か明日かと楽しみにしていました。蔓も5本に増え(作業中に2本折ってしまいました。)、蕾の数も去年の3倍くらいありました。
ある朝、バラがよく見える南側の道路に出てみると、蕾の付いた枝が折られていました。翌朝も、さらに次の朝も、蔓バラや、フェンスから手を伸ばせば届く範囲のバラの枝が折られていました。
花を楽しみにしていた気持ちが、悲しみと怒りでどんよりとなりました。
それは翌年も続きました。花の咲いている間、枝を折り続けられるのです。どうにもこうにも悲しくて、こんな悲しい思いをするなら、バラは、道路から見えないところに植えるしかないと思い、その年、気温10度の日が続いたら植え替えをするつもりでいました。

ところが、人生思い通りにいかないものです。
その年の冬、気温が10度を下回るようになったころから翌3月初旬まで体調を崩し、庭に出られない日が続きました。
バラの芽が動き出す3月中旬、ようやく庭に出ることが出来るようになったので、根を傷めないように軽く肥料を施しました。

寝込んでいた体はなかなか思うように動きません。すぐ腰は痛くなるし、息は切れるし、肥料の匂いが鼻につき軽く頭痛も起こします。
「こんなつらい思いをしてバラの世話をして、それは、誰かに枝を折られるためじゃない・・・。」
と、心の中でつぶやいていました。きっとその時の私は鬼瓦のような恐ろしい顔だったに違いありません。
「泣いていいのは美人だけ、不細工は愛想良く笑っていなさい。そうすれば幸せになれるから・・・」なんて、何かで読んだことがあります。
「そんなの無理!!」、と思いながらバラの根元に肥料を淡々と入れていきました。
肥料の袋は5キロ、しかし私には重くて引きずりながらの作業です。
7本目のバラに差し掛かった時、私は、バラは手入れしてもしなくても毎年花を咲かせていることを思い出しました。そしてそのバラにいつも励まされていたことと、バラに一度もお礼を言っていなかったことも思い出したのです。

私は幹をなでながら、バラに感謝の言葉を言いました。一つ一つすべて心からありがとうを言いました。
すると、バラの枝を折った人のことが頭に浮かんできました。
「バラの枝を折った人は、きっとこの花を見て綺麗だと思った瞬間があるはず。その瞬間だけは嫌なことすべて忘れているはず。綺麗だと思ったから枝を折ったはず・・・ ならば枝の一本ぐらいいいじゃない。根っこまで持っていけるわげないし。根っこさえあれば来年また咲く。」
と、思いました。
それで、「バラさん、どうぞ枝を折った人の心も私を癒すように癒してください。」と、特に道路側のバラに言いました。
一日かけて庭と鉢のバラに肥料をやりました。後はまた体調回復をひたすら待つ日々が続きました。
そして、6月、なんと、その年のバラは今までになくたくさんの花を咲かせました。一つ一つ美しく大きな花が、道行く人々を楽しませただけでなく、枝の一本も、たった一本も折られていませんでした。
驚くことはそれだけではありません。それからずっと、枝を折られることはなくなりました。

人は植物を育てていると言いますが、実は植物は、人を観察しているのかもしれません。
花が好きでなければ、花の好きな環境は作り出せません。しかし、「取らないで、それは私のものよ!!」という気持ちもしっかり見ているのかもしれません。適切な手入れで花は確実に咲きますが、怨念のように植物たちを縛っていたら、植物本来の伸びやかな美しさを見ることはできないのかもしれないと思いました。
あの枝を折っていた人は、なぜ折るのをやめたのかわかりません。自分も同じバラを買ったのか、遠くへ引っ越したのか、それはわかりません。
それからのバラは、花が咲く度、人間のあさましい悪念のバトルに巻き込まれなくなりました。そして、7月、11月と返り咲きの花も多くなりました。

今年もまた花の時期に寝込んでしまいましたが、その間、次男がバラの剪定をしてくれました。それから写真をたくさん撮って、庭に咲くバラを見せてくれました。
大げさですが、今年も生きてバラの花を見ることが出来ました。
花さん、今年も綺麗に咲いてくれてありがとう。